自分の言葉で語り直す。この作業は、人にとっては煩わしい作業であるだろうけれど、ぼくにとっては割と大切な煩わしさだったりすのだ。なにかしらの良い話を聞いたとするじゃない。本を読んだり、誰かに会ったり、テレビでもラジオでも。生きている間には、どこかのタイミングで「これはいい話を聞いたぞ」という瞬間が何度か訪れる。だけれども、すぐに飲み込めないでいることが多いんだよね。
いやね。言いたいことは分かるの。わかるからこそ、いい話だなと思うわけだ。だけど、そこから先の展開が無いと言うか、忘れちゃうんだよ。せっかく良いことを聞いたのだったら、忘れちゃうのはもったいないし、使えないのもなんだかなあということになるじゃない。表面は理解しても、腑に落ちないという言葉がこの感覚を表しているんだろうね。腑に落ちるという言葉の意味をちゃんと理解したのは、この流れの中だったかなあ。
答えは目の前に提示されているんだよね。正解かどうかはどっちでも良いんだけど、直感的にいい話だと感じたものがとりあえずの答え。でも、自分で導き出したものじゃないからさ。なんとなく気に入らないと言うか、しっくりこない。
問いを立てるというと、学術的で難しく感じちゃうから単純に「なんでだ?」「どうしてそうなった?」「ホントかよ」という疑問符をいっぱい並べるということが多い。新しくて絶妙な問いを立てられるほどの能力を自分が持っているとは思っていないので、とりあえずは既知のものを疑うとか、確かめるというようなスタンスかなあ。
そうするとね。自分の経験や周囲のことや社会のことを当てはめて見るしか無い。さっき聞いた「いい話」を抽象化してみて、数学で例えるなら公式化する。これに、身近なものを片っ端から代入して問いてみる。取っ掛かりが見つかったら、掘り下げたりもする。で、まあ大概のケースでは「振り出しに戻る」とうことになるのだ。何ていうのかな、結局一周回って最初の答えにたどり着くみたいなこと。
こういうこと、経験ないですか?一周回って帰ってくるみたいなの。会議しててもよくあるような気がしててさ。中には「最初から言ったじゃん」みたいに言って、無駄な時間を過ごしたかのような捉え方をすることもあるんだけれど、実はこのぐるぐる巡る時間って大切なんじゃないかと思うんだよ。
会議で言ったら、みんなの納得感を得るための時間。コミュニケーションコストと言い換えられるかな。最終的な結論は最初と同じだとしてもさ、いろいろ巡った結果だから皆が納得しやすいじゃない。みんなで「良い答えだね」ってなる。
これを、ひとりでやろうとすると「自問自答」からの「自分の言葉で語り直す」になるのよ。メチャクチャ面倒くさいし、時間がかかるよねって言われる。言われるんだけれども、時々でも良いからこの作業をやっておくと、いろんな思考パターンが自分の中に根付きやすいんだ。自分のものとして使えるようになる。だから、新しい問いを出された時に、素早く思考して回答することができる。いろんなアプリをインストールしてるようなもんだからさ。
ということに気がついたのはいつ頃からだろうなあ。
今日も読んでくれてありがとうございます。実は、料理って同じことなんだよね。レシピを見る。やってみる。なんでだ?どうして?変えたら失敗するのか?などなど、レシピやコツのようなものを自分の中にインストールしておく。そうすると、とっさにメニューを思いついたり冷蔵庫の中のものでササッと料理を作れるようになったりする。ということかなあ。