まん延防止等重点措置が解除になってから、少しずつだけれどお客様の数が増えてきている。とは言え、まだ元通りではない。コロナ禍以前のようにはならないだろうなあ。ということは、薄々考えてはいた。それが、なんとなく実感を伴ってきたところだ。まだしばらくは大人数の集まりに関しては心理的な規制がかかり続けるだろうね。
とにかく、一時期に比べれば厨房に立つ時間が増えてきた。まがりなりにも料理を作ることを生業の一部にしているのだから、自然なことだ。
料理を作る際には、様々な道具がある。鍋や包丁やまな板、お玉に箸といった原始的な、シンプルな道具。それから、電磁調理器やガスコンロ、オーブンにスチームコンベクションオーブン、冷蔵庫、冷凍庫などの比較的新しい技術で成り立っている道具。メカだ。
それぞれに使い勝手の良し悪しがある。毎日使うものだから、使い勝手の評価も厳しくなっていく。こういったことは、たぶんどんな業界にもあるだろう。ハードにコンピューターを使う職業だったら、機体やOSの良し悪し。座っている時間が長いのであれば、椅子の良し悪しなんてこともある。色々と試してみて、そのうちにこっちが良いだとかあっちはイマイチだとか、独自の判断基準を見出していく。
面白いことに、調理道具における使い勝手の好みだとか良し悪しの話は、たいてい原始的な道具のことになる。メカよりも、包丁の話になるのだ。それだけ使用頻度が高いとも言えるし、道具も道具の側で長い間に洗練されてきたデザインだからだとも言える。メカは、まだその域に達していないのかもしれない。もしくは、便利すぎて好みの入り込む余地が少ないのかもね。
ぼくの手元には、いくつかの包丁がある。実際数えたことはないけれど10種類くらいはあるんじゃないかな。ホントはそんなに要らないんだけどね。なんだか、いつの間にかこうなった。基本的には和包丁。洋包丁は2本。洋包丁っていうのは家庭用の三徳包丁とか牛刀みたいな形をしているものだ。
違いを述べよと言われれば、包丁の刃が特徴的な差異として挙げられる。和包丁が片刃で洋包丁が両刃だね。だけど、よく見るとそこだじゃない。柄の形状がまったく違うのだ。
洋包丁の柄は、人の手に沿う形状になっている。最近また進化していて、人間工学デザインでグリップが作られるようにさえなってきている。一方で、和包丁。基本的に棒だ。楕円だったり六角だったりいろんなデザインがあるけれど、これは装飾的な意味合いが強いと言われている。
不親切だと言えばそうかもしれない。けれども、そうであるからこそ使い手の工夫が生まれる。どの部分をどのように持って使うと、自分の手癖に合うのか。そんな工夫をする「余白」が残されているとも言える。中にはヤスリがけをして手に馴染むようにする人もいるし、長年使っているうちに木製の柄が削れて自分だけの柄に進化する。そういう余白。
抽象化するとどういう表現になるのかな。人間の工夫や思想を引き出すためのデザイン。あえて不便さを残すデザイン。とまあそんな感じになるだろうか。
現代ではスーツでさえもウォッシャブルタイプが登場し、伸縮自在な素材もある。まことに便利で助かる。その代わり使い手が工夫する余地がないから、愛着が薄れてしまいかねない。愛着が無いと、消費財にすらなってしまう可能性がある。
ああそうか。だからこそ、今まで以上にモノと人をつなぐ物語が重要になるのだね。
今日も読んでくれてありがとうございます。硬い革靴を長年手入れをしながら使い込んでいく。靴を育てると表現される行為でもある。手間だけど、その手間が愛着を生んで、スマートさを引き出していく。という発想がそこかしこにあるんだな。家庭で料理する。これも同じ線上で語られるのかもしれないね。