エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 人を分かった気になってみる 2021年8月24日

2021年8月24日

人には人それぞれの才能があると信じて疑っていないのです。ま、才能の定義がどんなものかにもよるのだけど。
なんとなく、特殊能力みたいに捉えがちかもしれないよね。確かに特殊能力の様に見えるんだ。ただ、それは別の才能を持った、別のタイプの人から見た場合に特殊能力のように感じるだけで、きっと本人にしてみれば何気なく出来てしまうようなことだったりする。
ま、そんなことを「才能」と定義している。特徴と言ってもいいかもね。

なんでこんな話をしているのかというと。家族や職場、観光協会や商工会議所、東海道シンポジウム。こうやって色んな所で人間観察をしてしまう、そんな癖があるからだろうね。だから、いろんな気付きを得ることが出来るんだと思う。

もう少し若い頃は「何だこの人?」「こんな事もできないのかよ」なんて、生意気なことを考えていたこともある。ホント生意気だよね。これって「われこそが正義」というベクトルの精神だ。こういう精神にたどり着くお年頃ってあるじゃない?ない?ぼくだけかな。
中途半端に知識があって、それでいて人間というものがまるで見えていなくて、でもそれさえも理解したつもりでいる。ぼくがそんなところにハマっていたのはいつ頃だろうか。30代中頃かなあ。

年を重ねる間に多少なりとも経験を重ねていって、たくさんの人に出会って、そしてその人達としっかりと向き合う。例えば、ぼくとは性質の違うタイプの人とじっくりと酒を酌み交わしてみる。そんなことを繰り返していった結果、たどり着いたって感じかな。
確かに十人十色というか、人には人の思考や性質があるというくらいの知識は以前からあったと思うんだ。それこそ小賢しいんだから。知識では知っている。それが、経験を通してやっとここ数年で自分の真ん中あたりに気持ちよく納まった。そんな感覚ね。

この感覚を得たことで、失ったことがあるんだよ。それが、「わかった」「わかっている」という感触。人間社会をありのままに受け取るようになったら、多様性が想像していた以上に凄くてさ。「これは並大抵のことでは「わかった」とは、うっかりでも言えないよなあ。」なんて気持ちになっちゃったんだ。だから、社会学とか人類学とかを突き詰めている人に対しては尊敬しかないよね。
いやね。ホントにぼくなんかの能力では人間を完全に理解することは難しいなと感じてしまう。

だけど、もう一方の部分で違うことも考えている。わかろうとすること。これは、止めちゃいけないんじゃないかってね。なんとなく分かったような気がしてると、割とよく間違える。だけど、わかろうとしていないと、もっとわからなくなっていく。それにさ。人間って生きているじゃない?ナマモノなんだよね。食材みたいに言っちゃってなんなんだけど。状態がドンドン変化していくのが常態。感情も思考も変わり続けるんだもの。1分前のあなたと、今のあなたはもしかしたら別物。というか概念でしかない、と言い出すと唯識論の世界に突入してしまうので、ここまでね。

「人を分かったと思ってしまうと偏見を生む、さりとて諦めてしまうと分断を生む」
と、伊集院光さんがテレビ番組で言っていたんだけど。けだし名言だよねえ。

さてと、ここからがやっとこさ本題なんだけどさ。前置きが長くてごめん。この「才能」とか「人間理解」を「組織集団」に組み込んでいく、ということを前提にしてベクトルを自分に向けてみる。平たく言うと、「自分自身の才能とか内面を理解して、チームや社会のなかでどう生きるか」ってことね。なんで面倒くさい言い回ししたんだ?自分でもわかんないけど。
とにかくね。自分を理解しようとするとメチャクチャ難しいんだよ。毎日こうして文章書いているでしょ。言葉に置き換えながら理解しようとはするんだよ。だけど、近づいているようで遠くなっているような気がする。まるで蜃気楼だ。

家族や兄弟、友人を相手に「自己理解」についての壁打ちをしている。お互いにそこに興味があ場合だけど。自分で見た自分、他人から見た自分。そういうセッションめいたことをやる。
最近分かってきたのは、そもそも論が好きで本質や構造を理解することに思考が向かいがちだということ。良くも悪くも思考や意思、学んだ情報などの発信が強くて、よく喋るということ。そして自分でも意外だったんだけど、勉強することが好きであまり苦にならないということ。
弟と一緒にポッドキャストをやっていて、そういうところに気が付き始めた。正確には、気がついていたんだろうけど言語化出来ていなかったものが言語化されて、理解の解像度が上がったというところかね。「たべものラジオ」をやっていて、一番最初の収穫がこれだったりして。

新しいことをやりだすと、セレンディピティとはちょっと違うかも知れないけれどこういう副産物があるのが嬉しいよね。

今日も読んでくれてありがとうございます。自分のことだからこそ、完全に理解できるような気がするんだけどさ。そこが違うのかもねえ。もし自分が何者かを理解できたら、もう少し世界が違って見えるのかなあ。知り合いのお坊さんに座禅の手ほどきをお願いしに行こうなか。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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