エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 他者を知るとじぶんがわかる 2021年4月25日

2021年4月25日

子供の頃と比べれば、ぼくたちはずいぶんと色んな所に行くようになったもんだなあと思います。小さな頃はまちのほんの一部で生活をしていて、広くても大抵は小学校の学区内から少しはみ出る程度だった。そのうち中学生高校生と大きくなっていくと、電車に乗って毎日市外へ行くようになる。そうこうしているうちに、やれ東京に住むだとか大阪に住むだとか、県外に出ていくようになるし、海外へも行くようになる。

ずいぶんと色んな所に出ていったもんだ。
みんなも経験あると思うんだけど、外へ出る度にじぶんの地元を強く意識するようになるんだよね。市外へ出るようになれば「掛川人」、県外へ出るようになれば「静岡人」、国外へ出るようになれば「日本人」という具合にアイデンティティーも次第に広がっていく。
面白いなあと思うのだけれど、外へ出て外の世界を知れば知るほど元々いたじぶんの居場所のことがよくわかるようになる気がする。海外旅行に行くと「やっぱり日本って良いよね」という感想をもつ人がいるのだけれど、その感覚にとても共感しちゃうんだよ。「良いよね」とまではいかなくても、とにかく、今まで以上にじぶんのまちをしっかりと見ることが出来るようになる。そして、ぼくの中にある世界観がぐっと拡張されていく感じがするんだ。

他の世界を知ることで、今いる環境が相対化出来る。相対化することで、比較してみてじぶん自身がよくわかってくる。ということは大切なんだと思う。

だってね。じぶんのいる環境だけだったら「昔も今もずーっと同じ」という幻想に捕らわれたままかもしれないんだよ。この世界は不変だとね。でもさ、他の国を見てみると全く違う世界観があって、日本の常識なんて通用しないわけ。だれも「日本茶」なんて飲んでない。多少「日本茶」が認知されている国だって、砂糖を入れて飲むのが当たり前という地域だってあるんだ。
こういうのを知ると、世界は流動的でもっと自由に変容するものなんだという感覚を「肌で感じる」ことが出来るよね。

日本料理には醤油や味噌やみりんが不可欠だと思われている。実際に出番がとても多い調味料だし、現在の料理には欠かせないような気もする。でも、「そういう気がする」というだけのことだ。ホントのところは、みりんなんてものが一般的に使われるようになったのは、近代に入ってからなんだ。江戸時代の後期になって高級料理店を皮切りに少しずつ広がっていって、一般家庭で「みりん」を使うようになったのは昭和時代のことなんだって。

地理的な広がりと、時間的な広がりを知る。それでぼくらが得るものはなんだろう。ぼくは「今ここ」という鎖から開放されて「自由があるということを知る」ということなんじゃないかと思うよ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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