エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 価値と価格のバランス 2021年9月2日

2021年9月2日

頭の中でぐるぐるとしている思考の話です。多分、モヤモヤする話になるはず。
「誠実に一所懸命に努力をしている人」がいて、正しくその力を成長させている人だとする。その一方で、「商売の技術でうまいことやる人」がいて、その方面で力を伸ばしている人がいるとする。というか、いるよね。とんでもなく大雑把な言い方しているから、現実とは合致しないけれど、そういう概念で双方を見比べてみる。

大抵、収益は後者の方が高い場合が多い。特に、労働者として働いている人が顕著かな。経営者にもいるけれど、自らが労働に従事している場合が多いかも。うまいことやる人だって、そのための技術を学んでいて、一所懸命だからそれはそれで良いのだけど。なんだかバランスが悪いよなあという気持ち悪さも感じていてさ。その根源がまだ言語化出来ていないもんだから、モヤモヤする。

例えばね。料理が大好きで、料理を食べてもらって人を幸せにするのがなによりだと考えている料理人がいるとするじゃない。ぼくなんかよりも、ずっとスゴイ人がいるんだよ。そういう人って、収入に執着しないからなのか、あんまり金銭報酬は高くないんだよね。一方で、なんとなく手に職をつけておいたほうが良いよなあっていうくらいの感覚で調理師免許を取得した人が、どこかの企業で飲食に携わっていたり、ファミレスのシェフをしていたりする。で、こっちのほうが収入が高いってことが起きているわけ。

一方で、情熱があっても能力がそれに伴っていないことだって当然ある。その場合に、能力査定をしたら金銭報酬が高くなることは無いはず。その逆だってある。ややこしい。

これ、料理の業界に例えたけれど、あらゆる業界で発生しているよね。業界を飛び越えて考えても、子供や高齢者のケアをする人たちで、とても愛情深い人たちの収益が低くて、そうじゃない人たちが高いってこともあるじゃん。

ちゃんと力と精神を鍛えている人が、公正に評価される世の中にするにはどうしたら良い?イチローが年俸500万円で、2流の選手が1億円だったらびっくりする。スポーツの場合は、能力と精神力が可視化されやすいからこそ、ここにバランスを取る力学が働くのだけど、可視化されにくい世界ではバランスの悪さはそのまんまだったりする。そういうことってたくさんあるんじゃないかな。

人だけじゃなくて、モノだってある。ぼくらは料理を商売にしているから余計に感じてしまうのだけど、野菜の価格設定に困惑することがある。このキュウリとあっちのキュウリがおんなじ値段で良いの?とかね。食べたらすぐに分かるレベルで品質の違いがあるのに、どっちも同じ値札がついているということもよくある。これはスーパーマーケットではあまり見られなくて、道の駅とか直売所なんかに顕著な傾向かも。なんだか、頑張っている人がバカを見ているよなあと。
魚の場合は、ある程度仲卸業者が目利きをしてくれるし、スーパーマーケットでも目利きが入る。間に人が介在するからこそ、売値が高くなるんだけど安心感は追加されているんだろうね。

この目利きが問題でさ。価値観はその人の独自の価値観だから、一律に正解を導くことが出来ないわけだ。特に、人材マーケットなんかはわかりにくいよね。雇用されている人はわかるかもしれないけれど、人事評価ってけっこう上司によって変わることがあるじゃない。もしくは会社の風土とかね。転職した瞬間に能力が開花することだってある。こういうことを、可視化するのってとても難儀するよね。評価点をつけちゃいけないんだろうけれど、過去の実績以外に評価する軸を持っていないと出来ないから。これがとても難しい。
どうにかできないもんだろうか。ということを考え出すとぐるぐると思考が巡ってモヤッとするわけですよ。

今日も読んでくれてありがとうございます。ホント、読んでもらっておいてなんだけど、着地はない話題です。課題意識として、そういうことがあるなあ。と思っているというだけのことで。でも、なんとかしたいとは思っているんだよね。まだ、しばらくはモヤモヤしながら抱えておくことになるか。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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