相変わらず、スピーチとかコミュニケーションについての相談がやってくる。不思議なことにね。料理よりも「話す」「聞く」「会話する」ということについて、意見を聞かれることが多いんだよ。不思議だよね。ぼくのことなんだと思っているのだろうか。料理人じゃないのかもしれない。
嫌じゃないから良いんだけどさ。
ご主人や友人から「話のオチがない」と言われる。この手の相談はよく聞くんだ。何度も言うけれど「オチ」は要らない。そんなに笑いに繋げたかったら、相手が笑いになるような工夫をしてくれたら良い。そもそも、「笑いを取るため」に会話をしているのじゃないのだ。会話、コミュニケーション。どちらで表現しても良いのだけれど、コミュニケーションの目的はコミュニケーションそのものなのだ。
そうじゃないコミュニケーションというものも存在する。例えば、商談を円滑に進めるための雑談だったり、観客を笑わせるための笑い話だったり。こういったものは、別の目的が存在する会話。目的が別にあるから、コミュニケーションが手段になっているのだ。
この時点で違和感がある。コミュニケーションは「人と人との交流」なんだと思うんだよ。だから、会話っていう手段とコミュニケーションはイコールじゃない。ビジネス書に「コミュニケーション術」と言われるものがあるのだけれど、本質的には違うのじゃないかなあ。会話術は会話のテクニック。手段の話だからね。「コミュニケーションのための手段のテクニック」という意味で使われているのだろうけれどね。
そもそも、コミュニケーションってなんなのだ。コミュ障という言葉もあるけれど、障害と言うからにはほとんどの人が健常でなければならない。誰でも当たり前にできることを前提にしているから、そうじゃない人を障がい者扱いするわけだ。けれども、ぼくを含めてほとんどの人はコミュ障に見えるんだけど。どうだろうか。
ぼくは、議論することが好きなんだよね。戦うという感覚じゃないし、論破なんてしなくてもいい。ただ、ぼく以外の人の感じ方や受け止め方を知りたい。そのうえで、ぼくだったらこう思うということを繰り返していく。そうすると、お互いに思いもよらない所へ結論が進んでいって、モノゴトの理解が深まるってことがあるじゃない。そういうのが「好きだ」というだけ。こういうのが「好きじゃない人」にしてみれば、甚だ迷惑な人物であるはずだ。めんどくさい。
論破が好きな人もいるよね。論破合戦。誰かを傷つけたいわけじゃなくて、ゲームのように議論をする。相手を論破するのも楽しいし、完全に敗北してもそれはそれで楽しいという人。それは、あくまでもゲームなのであって、その人にとってはただの遊びなんだよ。ただただ、その時間を「論破ゲーム」として楽しく過ごしたいだけなんだ。
けれども、これまた好きじゃない人にとっては迷惑だ。ホントにめんどくさい。
この理屈で行くと「話にオチをつける」という遊びをしている人は、そのゲームを楽しんでいるのと同じだ。だから、あなたに対して「オチ」を求めるのだと思う。誰かわからないけれど、第三者を設定してその人を笑わせたら勝ち、みたいなゲーム。そんな人がいなくてもいることにして言葉遊びを楽しむ。そんな感覚。これが好きな人は良いけれど、そうじゃない人にとっては迷惑なのだ。めんどくさい。
コミュニケーションの本質的な目的は、コミュニケーションそのものだ。共感しようがしなかろうが、言葉遊びだろうが、ゲームだろうが、お互いに良い気持ちになったり悲しい気持ちになったりすればそれで良い。そういう意味においては「オチ」なんて無くて良いのは、上記の例のとおりだ。
めんどくさい人たちは、ただのコミュニケーションに別のルールを付け加えて遊んでいるんだろうと思う。その方が面白いからっていうだけの軽い気持ちでね。
「共感してくれない」と言っている人は、コミュニケーションに「共感する」というルールを付け加えているんじゃないかな。それも面白いルール設定だよね。
コミュニケーションというある種のゲームにおいて、一定のルールがあるはずだと思う。問題なのは、この共通ルールを理解していないことと、共通ではないルールを持ち込んで共通だと思いこんでいること、この二つかな。
今日も読んでくれてありがとうございます。ぼくも、けっこうめんどくさい人種だ。だから、言葉遊びをしたいときは「○○について話す」をやろうよ、って言っちゃうこともあるくらい。大体の人は、コミュニケーションに独自ルールを持っているから、みんなコミュ障ってことで良いんじゃないかな。