エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 学校で勉強するということの意味。 2022年1月25日

2022年1月25日

先日のことだ。友人からこんな話を受け取った。

学校で勉強する意味ってなんだと思う?子どもたちに聞かれてどう答えたものかと思っているんだけど。

さて、皆さんだったらどう伝えるだろうか。

そして、学校で勉強することをどう捉えているだろうか。

インデックスを作っている感覚かな。その時はそんな話から会話が展開していった。

アイデアや思考を作っていく元になるのは、他の誰かが積み上げた知識や知恵であることが多い。というかほぼそれだ。なにもないところから1を生み出すということは、現代においては無いんじゃないかな。

既存の知識と知識が結合して、自分の中で消化された時に何かが生まれる。

そんな感覚がある。消化するには時間と労力がかかるし、何をチョイスして良いのかもわからない。だからさ、「すでに存在しているものにはどんなものがあるのかを知る」ということは、とても有用なんじゃ無いかと思うんだ。

だって、存在を知らないコトは調べようもないじゃない。

この感覚は、今もそうだと思っている。

だけどね。足りない気もしているんだよ。

「将来のために」

こういう言葉がついてしまうのではないだろうか。いや、良いんだよ。良い

ただ、心配なのは「現在の楽しみ」を犠牲にしてしまうのはもったいないのだ。犠牲にしたという感覚があると、将来のリターンに過剰な期待をしてしまうし、勉強も苦しいものになってしまう。

勉強そのものが楽しいと思えたなら、それが一番いいんだけどな。

楽しむ。を誘発させるのは、それはなんだか気分が良くない。自発的に楽しいと思ったものを追求するのはとても楽しいだろう。

と考えていくと、「許される環境」というのが良いのじゃないだろうか。

例えば、学校の授業で聞いた話の中に興味が湧いてきて調べたくなったとする。でも、授業はドンドン先に進んでいくし、時間が来たらその授業も終わって10分もすれば別の授業が始まる。つまり、追求する自由を許されていない状態とも言えるかもしれない。

逆に、ノルマを課せられると興味があることでも苦役になるというケースもある。

聞いた話だけれど、子どもがあまりにもゲームに熱中していて、勉強どころか食事もおろそかで困っていたそうだ。そこで、子どもにゲームの課題を与えたんだって。今日の目標はどうするの?そこまで達成したらご飯にしましょう。とかね。始めのうちは喜んでゲームをしていたのだけれど、1週間と経たないうちにゲームがつまらなくなって、やめてしまったそうだ。

食事が食べられないからとか、そういう理由ではない。

遊びから自由を奪ったのだ。自由がなくなったから楽しみもなくなった。それは目標を与えたことで発生した。

これは、とても興味深い。

未来のことが大切なのはもちろんだ。けれども、現在の自由を制限すると、現在の楽しみも消失して、結果として未来へつながる知の資産も失うことにつながるということである。

今日も読んでくれてありがとうございます。バランスが大切なんだろうなあ。ということにはたどり着いたのだけれど、これを実践するのは相当難しいぞ。自分自身が出来ているかと言うと、どうだろう。時々は出来ているというくらいかなあ。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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