表現っていうのはなかなか奥が深い。
ジブリ映画はぼくも好きで。たぶん、ファンの人達がたくさんいるんだろうけれど。だいたいの映画は見た。子供の頃は「天空の城ラピュタ」と「ナウシカ」が好きだったなあ。大人になってからは「もののけ姫」がお好みだ。
ずいぶんとあとになって、ドキュメンタリーやらなにやらで知ったことなんだけど、宮崎駿監督が大きく変わったそうなのだ。必要な部分は書くけれど、わかるようには書かない。そういう変化なのだそうだよ。
そもそも、「ナウシカ」で描きたかった世界観を、もういちど描きなおしたのが「もののけ姫」なんだって。「もののけ姫」という映画はアシタカが主人公の物語。言ってしまえば「アシタカ伝説」。まったくややこしいタイトルだ。ナウシカ=アシタカ。話に聞いて笑っちゃったのだけれど、このタイトルの付け方をナウシカに置き換えると「オウム」になっちゃう。
どうやら、「ナウシカ」での表現は子供っぽすぎて、宮崎駿監督自身でもう一度やり直したかったらしいのよ。
「ナウシカ」とか「天空の城ラピュタ」の時期のジブリ映画は、描きたいことよりも、わかりやすく表現するということを考えていたようだ。描きにくい部分は描かない。そして、伝わらない部分は多少不自然でもしっかり見せる。そう言われてみれば、天空の城ラピュタに登場する人物は独り言を言うもんなあ。ドーラなんかは、この子がいれば都合がいいかもしれないって、大きな声ではっきりと独り言を言ってる。そういう心の声は、表に出さないのが「もののけ姫」以降のジブリ映画だと思う。
そういう意味で、「もののけ姫」では「描きたいことは全部描く」んだけど、あちこちに隠してあるからあとは視聴者に「読み取ってもらえたら良い」ということになった。そして、描いていないところは好きに解釈して良いってさ。
これは、なかなか難しい注文だよね。視聴者を信頼しすぎ。というか、わかりにくい。伏線というか、推理モノの小説か映画のように、あちこちにヒントを散りばめている感じ。
見る側に色んなものを求め過ぎだよね。だって、最初に見た時には全然気が付かなかったもの。縄文文明と弥生文明の関わり合いだとか、なんで西に行くのかとか、アシタカの子孫がいるってどういうことなのか。そんなのはね。公式ガイドブックを見てやっと分かるわけ。
だけど。ちゃんとわかっている人には伝わっているんだよね。それは、ただの推理ゲームっていう場合もあるけれど、それだけじゃない。伝わり方が深いんだ。後から解説を聞いたぼくなんかよりも、心で感じ取っているものがずっと多いような気がするの。
やってくる情報を受動的に受け取るのか、自らの心で迎えに行くのか。その辺りに差分があるのかもしれない。
なんでもわかりやすければいいってことじゃないんだろうな。全くわからないくらいに隠しちゃうのも、ずっと見つけてもらえないかくれんぼみたいで寂しいけどね。表現というのは、あやういバランスの上にあるのが面白いのかもしれない。
今日も読んでくれてありがとうございます。「たべものラジオ」であっても、料理であっても、社会デザインであっても、まぁ表現の一つか。そう考えると、なかなか考えさせることだ。