エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 料理は作ってみること 2021年3月17日

そばのそばつゆを作る時に、どう食べるかを考えてからそばつゆを考えるわけです。丼に入れて提供する場合は、つけそばに比べればかなり薄めに作りますよね。それでも、つゆ単体で飲んだ時に丁度いいくらいの塩梅だとちょっと薄いんです。そば自体の塩分が薄いし、そばに水分が絡んでいるのでその分つゆが薄まってしまう。だから、単体で飲んだ時に「ちょっと濃いな」というくらいが「丁度いい」ということになります。
料理ってトータルで考えて作るんですよね。それも、ノウハウとしてはあるのだけれど、「やって」みて初めて「わかる」。体感として「わかる」というのが大切なんだと思います。

僕の友人が「実験的店舗」というのをガンガン立ち上げます。今までに事例がないビジネスモデルという部分もありますが、そうでなくても「体感と数字」の両方を取り込むためにガンガンお店を立ち上げます。あのパワーは本当に尊敬しますね。「失敗したらどうしよう」という気持ちにならないのかな。と心配する人もいるのだけれど、彼は「どうしよう」ではなくて「失敗したらこうしよう」というのがあるんですね。その「こうしよう」というのは「実験結果を踏まえてプランを修正しよう」ということだけ。
それをいくつも「やって」いくと、さっきの話で言うところの「つゆ単体より少し濃い目」にしておけば「丁度いい」が「わかる」。料理もビジネスも一緒です。ノウハウだけに頼ると、自分のものにならない。ちゃんと自分のものにしておけば、いわゆる「勘所」を自分のものに出来るんですよね。

僕ら料理人は、ノウハウとしてのレシピを膨大に覚えていても使いこなさなくちゃ意味がない。何度か作って食べてみて、なんとなく違和感があるポイントを探し出して「そうだ次はこうしよう」という答えを何度も出していくから、美味しい料理を作れるようになるんだと、誰かが言っていましたよ。誰だったか忘れちゃいましたけど。例えばとっても賢い人が、ありとあらゆるレシピを暗記していて、それを忘れずにいたとしても、やってみて体でわかっていないと、やっぱり「本当に美味しい」とはなりきらないんでしょうね。
料理の場合は類似のレシピもいっぱいあるので、これを繰り返していくと新しいレシピを思いついた時に、だいたいの味や注意すべきポイントが自然と見えてくるんです。これが「勘所」が「みえる」っていうことです。

そんなこんなで、何かにチャレンジしようと思ったら「レシピを考えて」「やってみる」ということ。諸葛亮孔明は劉備玄徳に、まずはじめにこう伝えたそうです。「漢王朝を復権させたいなら、まず自分の国を起こせ。そのために蜀を乗っ取れ」とね。あ、それっぽいことね。正確なことは調べてください。レシピを伝えて劉備に「やらなきゃ始まらんよ」と言ったんですよ。

こういうことって、時々言語化することで整理できるわけです。ぼんやりイメージで思っていても、それは考えたうちに入らないという感じかな。
「やって」初めて「わかる」は、料理以外も一緒だよ。ということを、実は僕自身にも言いたくて書きました。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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