さくらのはなし。桜の季節だねぇ。きれいだし、とても華やかだ。咲く直前も良い風情があるし、真っ盛りはとても華やかだし、散る姿すら美しい。なんだろうね。とても日本らしい。
どこに、日本らしさを感じるのか。なぜ日本人は桜が好きなんだろう
春には春の桜があって、夏には夏の桜、秋には秋の桜。
そんなふうに、それぞれのシチュエーションでの桜の姿を見る。花盛りの頃が一番の見どころではあるのだけれど、それも、他の季節の姿があるから映えるのかもしれない。春にばかり目が向いてしまっているけれど、実は無意識に他の季節の姿も見ている。
他の姿を知っているから、満開の桜がより美しく思えているのかもしれない。
それぞれのシチュエーションに見合った姿というのがある。世阿弥は風姿花伝の中で、それを年齢に見合った花の咲かせ方と表現している。少年期の若々しさ、青年期の花盛り、老齢に至っては枯れ木の美しさ。花盛りの青年が、枯れ木の味わい深さを表現しようとすると、それは無理がある。
自らを客観的に見て、シチュエーションに相応しい姿を描く。
それには、内面にある心の有り様も見る必要がある。その中から、最も見合った姿を表出させていく。
そんなイメージだろうか。
世阿弥は年齢別、つまり人間の成長に合わせた有り様を語った。けれども、もっと短いサイクルの中でも同じことが言えるのじゃないかな。例えば声。
悲しい時には、悲しみをたたえた声になるだろうしね。怒ったふうでも、笑ったようでも、そのなかに悲しみを携えているような、そんな声。楽しい時には、静かに話していても楽しそうな雰囲気が混ざった声。
声というのは、誰もが違っていてそれぞれのシチュエーションに見合った音を放っているはず。
声のプロフェッショナル。声優や俳優や歌手やアナウンサーになるのかな。そういう人たちのスゴイのは、シチュエーションに見合った声であることに加えて他の要素がある気がする。自分の中にあるバリエーションのうち、一番良いものを選び取って使いこなすこと。なんじゃないかと思うんだ。
一番良い。というのがどういうものか。主観的な判断なのだろうか。それとも、周囲の人たちの意見を聞きながら調整していくのだろうか。その両方なのかもしれない。
もちろん、素人の我々とは違った「声を出す技術」を習得していることは間違いないだろう。この技術は、最適な声を使い切るためにあるようにも思える。
なんとなしに、声を例えに出して話を進めてしまった。声以外でも同じことが言えるのかもしれないな。仕草や、身につけるもの、表情、食べるもの。それぞれのシチュエーションに見合っていて、自分の中の最良の部分が表出される。
最良をなにとするか。そこに、人生観が含まれていて、人間社会を多様で豊かなものにしているのかもしれない。
今日も読んでくれてありがとうございます。桜の話じゃなくなっちゃったな。ま、いいか。料理を使って表現することも、たべものラジオで話すことも、同じことのように思えてきたよ。