日本の伝統芸能「能」の世界が凄すぎて感動しました。といっても、こんなご時世に観劇に行ったというわけじゃなくて、その考え方の体系が深いなあと思ったという話ね。
能は室町時代に成立した芸能で、それを確立させた観阿弥世阿弥の親子は教科書にも登場する有名人だ。息子の世阿弥が書き記した能の理論書に「風姿花伝」と「花鏡」がある。全文を読んだわけじゃないから詳しいことはわからないけれど、能じゃないことにも十分に転用が可能な部分があるんじゃなかろうかと。そんなふうに思っています。
『花鏡』に「動十分心、動七分身」ということが書かれているそうだ。現代文に意訳すると「心を十分に働かせなさい、体の動きは、心の動きに対して七分目にとどめなさい。それが一番リラックスしたように見えるから。」というようなことらしいのね。いろんな解釈の仕方が生まれそうな表現なんだけど、ぼくは「100%を見せるな」ということだと聞いたんだ。
例えば、表現したいことが「いろんな情景や背景があって嬉しい。その嬉しさというのはこういう感じなんだ」とするね。そしてその全部を開示するんじゃなくて、少しくらいは伏せておく。背景を表現のを少しにして、嬉しい気持ちも全力じゃなくてちょっとだけ余力を残して表現する。みたいな感じかな。そうすると何が起きるか。見た人が勝手に想像するんだよ。
つまり、動七分身というのは「三分は観客が想像するための余白を残す」と言うことだと。
人によって違う情景に見えるという部分があるからこそ、深みが出る。なんとも奥深い世界だなあ。スッキリして具体的な表現も良いけれど、いかようにも解釈が可能な余地があるものって面白いんだろうね。「ぼくはこんな解釈だったよ。」「いやいや、わたしはこんな感じだった。」というゆらぎがあるのも良いし、一人の人の心の中でも、同じようなゆらぎが生まれるんだろうね。
時を開けて同じ演目を観劇すると、今度はまた違った解釈が生まれたりして、それがまた面白い。能の動作としては基本的に同じなんだけど、観客の心が動いていくから受け取り方が変化していくと言って良いのかな。
これ、名著良書の特徴のひとつだよ。百年以上にも渡って読み続けられる本が世界中に存在する。そして、その本を何度も何度も読むというケースもたくさんある。読むたびに新しい発見があって、一向に飽きないものが、歴史に名を残す名著の類だ。紀元前から残るものだってたくさんある。宗教の経典はその最たるものなのかも知れないよね。解釈が複数にあって、人それぞれだもん。だから、人々によって受け入れられていく。
掛茶料理むとうの料理でも、音楽の楽曲のようにストーリーを展開していくことがあります。それについては、言葉で補足していかないと全く伝わらないケースもあるから、配膳の際には「なぜこの料理にしたか」とか「こういう気持ちですよ」ということを言うようにしているんだ。いるんだけど、言い過ぎちゃいけないんだよ、と言われている気がする。お客様のために余白を残しておく。エンターテイメントはわかりやすければ何でも良いってことじゃないんだね。
いやあ、ホントに奥深い世界だ。知ったからと言ってすぐに出来るようなもんじゃないんだろうな。
今日も読んでくれてありがとうございます。よく考えたら、発信をセーブするということなんだから、動十分心の十を伸ばさないといけないじゃんね。10の心の躍動のうち7を発信するのと、20のうち14発信するのでは全然重みが違うだろう。20のうち7というのだってね。その、心の躍動を増やすにはメチャクチャたくさんのインプットが必要ということになるのか。これは長い道のりだなあ。