つい先日、リアルで開催された講演会に参加した。その講師や内容に興味があって参加した訳では無いのだけれど、そこそこつまらなかったのである。御本人も門外漢であるとエクスキューズをしていたけれど、だとしても有料で講演会の講師を請け負ったのなら、もう少し事前準備をしたら良いのにね。
未来の観光について、という題目だったのね。結論は、文化財や名所を見に行くというよりも人に会いに行くことが根幹にあるという話だ。その説明に終止していたわけだけれど、正直なところこの手の話は手垢がついている。観光プロモーションで、着地型という言葉が取り沙汰された10年以上も前には常識になりつつあったことなのだから。
現代では、どのようにして「人に会いに行く」楽しみを表現して、伝えていくかという手法が無数に試されている。日本全国の事例をあげれば、成功も失敗もそれぞれにたくさんある。その中で、何を失敗として何を成功とするか、指標をどこに置くのかという議論も活発になってきている。
そもそも、「人に会いに行く」ということに「楽しみ」を覚えることは、どういうことなのかというところに立ち返って思考や施策が展開されている。
聴講者の中のひとりが、「現場を離れるとこうなっちゃうんですね」と漏らしていた。そうなのかもしれない。もったいないよなあ。時間がさ。たぶん、あの場にいたほとんどの人にとって、ロスなのだろうから。それは講師にとっても、だ。
ぼくは、講師の話す内容が、オンリーワンの独自の思想である必要はないと思っている。むしろそんなものを発想するのは、極めて難しい。それに、特別な情報をもたらさなければいけないとも思っていない。その人の話を聞いて、自分の中にある思考にスイッチを入れることになれば、それで役目を果たすことになる、くらいのものだ。
先述の話とは食い違うように聞こえるかもしれないけれど、既知の事実や考え方を述べても良いということである。それこそ、聴講者は「この人は現場を分かっているな」という評価につながることもある。
ここなんだよね。たぶん。常識のアップデートなんじゃないかな。さすがにちょっと古すぎたんだ。最新の特別な情報である必要はないんだけど、現代にピントがあっていない感じがする。この違和感が聴講者、この講演会をロスにしてしまった。
例えば、「問題はすべからく分割して考えるべし。」について、2時間語るとする。このテンプレートは400年くらい前にデカルトが表現したことで有名だ。課題解決の手法としては、もはや常識として定着しているわけだ。これについて、デカルトが説明したことをそのままトレースしたところで、2時間が退屈になってしまうだろう。だったら、デカルトについての講義に参加すればよいのだ。まぁ、解釈の幅が広い概念なので、良い講演になることもあるのかな。サンプルとしてはふさわしくなかったか。
とにかく、400年の間に社会に実装されて定着したのである。その次のステップについて、考える機会を創出することがポイントになる。
ただし、これは相手によって違う。聴講者がまったく知らないことだったり、理解の浅い状態であればかなり有用な時間になる。逆に、すでに実行済みの人たちにとっては、座学も実地も終わっているのだから、無用のものである。ここが、現場をわかっているかどうかなのだろう。
今日も読んでくれてありがとうございます。1対多数であっても、相手の状況を推し量る必要があるのは1対1のコミュニケーションと同様なんだろうなあ。ちゃんと、相手の目をみて話すこと。そうだ。相手の目を見てというのは、ある種のメタファーで、本質的には相手に合わせて話をするということなのかもしれない。