エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 箸の持ち方のはなし。 2022年3月23日

2022年3月23日

お箸の持ち方やお茶碗の持ち方を注意されたことがある人いる?

子供の頃はけっこうしっかりと教えられたのかな。ぼくは、ばあちゃんからみっちりと指導された思い出がある。

持ち方なんてどうでもいいじゃん。ちゃんと食べられてるし、豆だってつかめるんだから。と言う人もいる。だけど、それってあんまり得策じゃないと思うんだよね。

美しいかどうか。そういう視点で見ると、たしかに基本とされている持ち方のほうが美しく感じるのだ。なぜかはわからない。教えられてきたからその様に感じるだけなのかもしれない。と思ったけれど、外国の方で我流で箸を使っている人から言われたことがある。その持ち方のほうが美しいね、と。

そうなのだ。幼い頃から、とにかくこれが正解だからやれ、と教え込まれてきたことの中には美が含まれていることがある。包丁の扱いにしろ、ペンや筆の使い方にしろ、ある程度習熟してくるとわかるんだよね。確かにこのやり方には合理性と美があるとね。習熟しないと理解できないことがあるんだろうなあ。理解できないうちから、論理的に理解させようと思っても難しい。だから、とりあえずはやってみな、ということになるのだろう。

基本的に、日本人のほとんどは箸の使い方に関してはある程度の習熟度を持っている。となると、合理性とか美意識についてもある程度の理解が進んでいると考えるのが妥当だよね。

ここで冒頭の、どうでもいいじゃん派の話に戻るのだけれど。周りの人の理解度が高い状態でいるから、美しくない振る舞いは目についてしまうということになる。そうなると、ああこの人は教養のない人だと思われることになる。残念ポイントが一つ加算されることになるんだね。

些細なことといえば、そうかもしれない。けれども、コミュニケーションという文脈の中で、印象というのは結構大切な要素だ。だからこそ、身だしなみに気をつけるわけだしね。笑顔が大事だとかさ。見た目が9割という本が流行ったことがあって、それには完全な同意はしかねるのだけれど。それでもやっぱり、第一印象って重要だなとは思う。

論理的にどうかは横へ置いておくとして、人間という生き物は与えられた印象に左右される生き物なのだと認識しておいても、まぁ大きな間違いじゃないんじゃないかと思うんだ。

たかが作法。なんだけれど、それくらいのことは教養人として当たり前だと思って美しく振る舞うこと。古典クラシックやシェークスピア、古今和歌集、哲学やアート、華道茶道に通じることの労力に比べたら、楽なもんだ。箸の使い方や、茶碗の扱いになれるくらいのことは、大したコストじゃない。

この人は教養がないな。という良くない印象を植え付けてしまったら、あとから覆すのはなかなか労力がかかるからねぇ。大変だよ。初対面ではないとしても、取引の初期段階で変な印象持たれちゃうとさ。さあ結婚しようという時に、相手方のご両親と会食。さあ、これから長い付き合いになるのだよ。はじめの印象をひっくり返す労力をかけるかい。

うちの店は、あんまりマナーをうるさく言う方じゃないから良いんだけどさ。さらっと、自然に作法を身に着けている人はやっぱりかっこいいなと思う。中身もきっとちゃんと素敵なんだろうなと思う。こういうのって姿勢がいいってだけで好印象だというのと似ているよね。

今日も読んでくれてありがとうございます。どうでもいいじゃんという話をしていた人がいたんだよ。外食している時に、そういう会話が聞こえてきちゃったんだけどさ。なんとなく思い出したので書いてみたんだけど。どうかな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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