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今日のエッセイ 自己肯定感ってどういうことだろう? 2021年9月15日

自己肯定感という言葉があります。あんまり強いとナルシストみたいに思われてしまうかもしれないけれど、そういうことじゃないんだよね。

自分自身のことをちゃんと認めて、それでOKと言いつつ、一方でちゃんと学んで成長すること。なんだか、そういうのって大事だよねという話。別にぼくが言うまでもないと思うんだけど、自分なりに言語化してみたくなってさ。

自己肯定が低い人って、割とポイントがズレてしまうことがある。と、思う。思うだけで自分がちゃんとしているかというとそうでもないのだけどね。自己肯定感が低いと、自分の気持ちで判断しなくちゃいけないタイミングで他人を優先してしまったり、逆に他人に合わせて判断しなくちゃいけない時に自分を優先してしまったりする。
前者は自信が無いからだ。例えば経営判断なんかは顕著で、こういう会社にしたいんだという強い意志は、自分の思想や理念があるからこそ言える。自己肯定の賜物でもある。これを、他人の目ばかりを気にしていたらとてもまともな判断はできないだろうね。
後者も自信がないからだ。他人のことを考えてどう対処すべきか。例えば接客業だとして、お客様にとって最良の選択は何かを考えなくちゃいけない時に、こうしたら叱られるかなとか、よく思われるかなとか、主語が自分になってしまう。

意外と当たり前のように起こることじゃない?ぼくは、どちらも思い当たる節があるよ。さすがに経営者になってからは、自分の会社の判断をするときには迷わないけれどね。だけど、他の組織ではよくやらかしたよなあ。商工会議所での事業で委員長を任されたときもそうだし、前職でチームリーダーをしていたときもそうだ。リスペクトすることと、その意見をまるごと飲み込むことは違う。ということを言われたな。
自分がリーダーをしていて、部下に先輩がいると変に気を使ってしまうでしょ。ぼくなんかは、そういうところで躓いたよ。それで大失敗をして、上席の1人から言われたのが「社歴や年齢ではなくて、お前をリーダーにしたことにはそれなりの理由がある。」だ。自分のことばっかり考えていたから、こういうことに気が付かなかったんだよね。

書籍やネットの記事で、自己肯定感という言葉を見かけて思い出すのはこんなことだ。ちゃんと本を読んだわけじゃないから、内容までは知らないのだけど。ぼくと同じ様に表紙の「自己肯定感」という言葉だけを読んだら、どんなふうに捉えるのかな。ぼくとは違う解釈をするんだろう。

完璧な人間もいないように、完璧な論理もなく、完璧な解釈もない。だからこそ人間社会は面白い。それはそうなんだけど、今日の話はけっこう普遍的な内容らしいよ。ぼくなりに腑に落ちるタイミングが合って、腹の底からわかったと感じている。でも、経験してなかったらちゃんと本を読んでも今ほどは理解できなかったかもね。

今日も読んでくれてありがとうございます。とりとめもない感じになっちゃったけど、「論語」や「真実のことば」が記された紀元前から語られてきていることだから、そういうことなんだろう。経験ってとても大事だね。感覚が伴わないと、ちゃんと理解できない。サリバン先生が似たようなこと言ってたな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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