「説明的になっちゃいけない。その一歩手前で留めるんだ」
というようなことを、日本画家の池永康晟(いけながやすなり)さんがおっしゃっていた。
絵画のことは、てんで門外漢である。絵が説明的だとかそうでないとか、なんのことだかイマイチわからない。だけど、なんとなく概念としてはわかるような気もするんだ。
全部をしっかり説明しすぎると、受け手の思考が入り込むスペースが残らない。と、僕は解釈したわけだ。
面白いのはね。顔に表情をあまり書き込まないっていうところなんだ。池永さんという日本画家のことは、最近聞いたラジオ番組で知ったくらいの浅い知識でしかないのだけど。美人画を描かれる人らしいのだ。なるほど、ぐぐってみるとそのようだ。
顔に感情を表さないようにすると、なにかが抜け落ちたようになる。そうすることで、見る人の側で抜け落ちた部分を補完しようとする。補完するには、それぞれの人の記憶の中の映像が使われることになるわけだ。微笑みにも悲しみにも見えるのは、見る人の記憶の中の映像と結びついているからだ。だから、見たことのある誰かに似ているように感じてしまうのだ。
人に何かを伝えるということの、奥深いところを覗き込んだような気がするんだよね。「伝えたいこと」と「伝わること」のブレ幅を少しでも小さくする。プレゼンテーションや商談では、ここに力点がおかれることが多いもんだから、話術もそっちに寄ってしまい、直接的に説明することを選ぶことになる。
だけど、「説明をバッサリと省くことで、伝えたいものが伝わる世界がある」と言っているようにぼくには聞こえる。
美人画なのに、そのメインである「顔」に表情を描かない。
表情を描かないのに、感情が伝わる。
具体的には、おくれ髪一本の位置や形状、服のたわみ、指などの細かな部分に感情をのせていくのだそうだ。その技法は、全くわからないけれどとても日本的でもあるなあと感じる。
日本的な文章表現の中にも、直接の説明や言及をしないけれど、全体の文脈や細かな描写がトーンを表現することがある。こと純文学には多いよね。このタイミングで風景の描写表現が差し込まれているのは、ちゃんと感情の表現として意味があるような気がする。とね。
かれはとても悲しそうな顔をした。という文章はあまり見ないもんなあ。日本文学じゃなくても、こんな表現はしないか。
言葉でも絵画でも、それから他の表現であっても、余白をうまく使ったものは多くあるよね。とても情緒的であったり、比喩表現が多かったり、なのに文章の本意は哲学的思考であるという書籍も沢山存在する。もっとはっきり言ってくれよと思わないでもないけど。本が一方通行ではなく、書き手と読み手の交流のように読めるのは、思考の余白を用意してくれているからなんだろうなあ。読むたびに、違った解釈を見出すことが出来るんだから。
今日も読んでくれてありがとうございます。たべものラジオ、料理、経営、そのどれもがある種の表現だと思うんだよね。器用に余白を作り出すような技術は持ち合わせていないけれど、もう少し意識してみようかと思うよ。