鬼ごっこ、かくれんぼ、たかおに、とかの遊びにはちゃんとルールがありますよね。だけど、永久には続けられないし。もし、めちゃくちゃ隠れるのが上手な子がいたとしても、見つけられなくてそのままいなくなっちゃったなんてことはないわけだ。遊びの中のルールというのは、どっかでファジーなんだよね。遊びの途中であっても、夕暮れになったら帰る。5時のチャイムが鳴らなくても、だいたいのところで切り上げるというのが、なんとなく暗黙のうちに了解されているんだ。
遊びのルールって不思議な存在だと思うんだよね。それなりにしっかりルールを守らないと、面白くならない。という面がある一方で、どこかしらファジーだから融通がきく。相反するようなことでありながら、共存しているのが「遊び」っていう世界観なんだろうと思うよ。
ルールていうのは制約を意味していると思うのだけれど。これが、いい塩梅に発想力を広げてくれるという効果がある。制約があるからこそ、工夫をしなくちゃならない。そういうのがいろんな世界でうまく働いているよね。もちろん食の世界にもある。
日本では、かなり長い間「肉を食べない」という制約が設けられていた。性格には「獣」。四足を食べないという言い方もされている。そうすると、「タンパク質はどうやって摂取するのさ」という課題が頭をもたげる。もちろん、その時代に「タンパク質」という概念があったかどうかは疑問だけど。本能的に必要な栄養素は感じていたんだろうね。
肉がないから「魚」を食べる。ということになるのだけれど、「魚」が手に入らない地域だってあるよ。しかも現代みたいに養殖は出来ないから、「魚」の入手が安定しないもんね。そういうこともあって「大豆製品」がすごく発展したのではなかろうか。という気がする。
味噌や醤油。これは大豆製品のなかでも調味料だね。世界の料理を見渡してみて感じるんだけど、味噌と醤油ってホントに稀有な存在なんだよね。「常備保存ができて、味付けに使うもの」って、塩や砂糖、酒類なんかが代表なんだけど、味噌も醤油もそこに並ぶんだよ。香りをつける香辛料はあるけれど、味をつけるものとしてはちょっと特異な存在。ソースなんかもあるのだけれど、ソースというのは一部を除いて保存するものじゃないからさ。
こういうふうにして、ルールがあるから進化したものがあるってことは興味深い。制約があるからこそ自由に進化できたという言い方もできるよね。制約と自由が共存するということだ。
そこには、ルールが少しばかりファジーであるということが影響しているのじゃないかとも思う。「肉を食べない」と言っていても、一部では普通に肉を食べていた地域だってあるわけだし。だからといって、それを無理やり縛るようなことをしない。なんとなく「肉を食べない」という風習という程度だからこそ、長く成立しているのかもしれないね。
今日も読んでくれてありがとうございます。こういう面からも「料理は遊び」の延長にあるように感じるんだよね。