エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 食べる人があってこそ料理は料理として意味がある。 2021年6月2日

2021年6月2日

「会話ならなんとかなるのに、映画やドラマとなると何を言っているのかわからない」
英会話をそんなふうに感じている人も、そこそこたくさんいるんじゃないかと思います。ぼくもそういうことがよくあるんだよね。

発信する方もするほうだけれども、実は発信する側よりも受け手の方がずっと大切なんだと思う。受け手がもっと英語を勉強しよう、という話じゃなくてね。どんな受け手を想定しているかということが、発信側に大きな影響を与えている。
会話の場合、こちらの英語が拙いということを加味して喋ってくれる。受け手が誰かということが、かなり影響しているよね。当然、ぼくらが英語をしゃべる時は、相手がネイディブであってもそうでなくても、拙いことを考慮して聞こうとしてくれる。なんだ、そんなこと当たり前じゃないか。と思うかもしれないけれど、めちゃくちゃ重要だと思うんだよね。
だって、受け手がいないと会話にならないじゃない。独り言じゃないんだから。

話を聞いてくれる人がいるから、声に出してしゃべる。歌を聞いてくれる人がいるから歌う。という能動的な部分を支えてもいるし、ただそこに存在するだけでも受け手が必要だ。もし人類がこの世に存在しなくても、月は存在するはずだ。だけど、その月を見て「良い月だなあ。」と感じる存在はいなくなるわけでしょ。「月」はあっても「良い月」がなくなる。という感覚、伝わるかなあ。

ややこしい話をし始めようとしたんだけど、書き出すとホントにややこしいからやめた。前に友人にこの話をしてドン引きされたし。

とにかく、誰が受け取ってくれるのかを意識しないで発信することはなかなかに難しい、ということだ。
「食べる人があってこその料理」ということを料理人歴80年のレジェンドから伺ったことがあるのだけれど、ホントにそのとおりだなあと思うよ。料理なんてのは、食べてもらうために作るのであって、飾るもんじゃない。食べた人が、お腹も心も満足することが第一なんだよね。レジェンドの先程のコメントは料理コンクールでのことだったから、「本心から食べる人のことを考えていますか?」というメッセージだったんだと思う。コンクールで装飾が不必要に華美になりがちだから、戒める意味でのコメント。でもあるけれど、実際の料理屋でも「食べる人のことを考えていない演出」というのも存在しているのを危惧されていた。

もう一つ、「皿や盛り付けは身だしなみである」ということもおっしゃった。人に会うのにパジャマで出かける人はいないだろう。だから、相手の気持に沿った服装が必要なのと同じように、料理の装いも整えるべきである。という意味だろうね。

どちらも一見相反することを言っているようでいて、受け手のことを本心から考えよ、という一点で繋がっている。

「美味しいものを食べたい」「驚かせてくれ」「お腹を満たしてくれ」「疲れを癒やしたい」「家族団らんのひとときを」「お酒の会を楽しみたい」どれもこれも、料理屋に求める受け手のニーズである。受け手によって、ストレートだけを投げることもあれば変化球を混ぜることもある。山なりのボールでのキャッチボールが心地いい場合ももちろんある。客商売である以上、いろんな人とキャッチボールをするわけだもんね。全部が全部対応すべきとは思わないけれど、自分なりでいいから受け手に合わせて調整するくらいはあっても良いよね。

今日も読んでくれてありがとうございます。食べる人が誰もいない料理は、もはや料理とは呼べない。よろこんで食べてくれるお客様たちみなさんに感謝です。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

-エッセイみたいなもの
-, , ,