エッセイみたいなもの

今日のエッセイ 食文化って一体なんだろう。 2022年1月26日

2022年1月26日

これからの食文化について考えよう。安っぽいスローガンみたいだ。

食文化を守る必要があるような言説が聞かれているのだけれど、本当にそうなのだろうか。

文化を「守る」という話を展開すると、もれなく「変わらない」がセットで付いてくる。セットでいかがですかと笑顔で進められても困るのである。ファストフードじゃないのだ。

「たべものラジオ」でも紹介しているのだけど、ビールもスシも「変えない」を守ることがとても難しかったんだろうなと感じるのね。時代によって、社会は変わるし趣味嗜好も変わる。その流れに逆らうことになるのだから、相応の労力が必要なのだ。

かといって、なくしてしまえとも思っていない。価値のあるものが消えてしまうのは一抹の寂しさを感じながらぼやけた写真を眺めるようなものだ。

実際に、かつて名物だったものの名前だけが記録されていて、どんなものだったのかがわからないという料理もある。もしかしたら素晴らしいものだったかもしれないのに。

時々の権力が守ってくれたから残った。そんな事例はたくさんある。一見むちゃくちゃだと思えるようなことを、かつての王政や封建社会では平然とやってのけたわけだ。それに戻りたいとは思わないけど、そのくらいのパワーが必要だってことだね。

さて、あっちもこっちもと考えていくと。

思考は「そもそも食文化とは何なのだ?」という問いにたどり着く。

生きるための糧。それは直接食べる食べるものでもあるし、販売することで生活を成り立たせるための手段でもある。これは、近世までのメインストリームだった。

そうなんだよ。現代ではメインストリームがそこじゃなくなってきているんだよね。

現代では、コミュニケーション手段だったり、アートのように楽しんで心の糧にしたり、ビジネスツールになったりといろんな側面を見せている。

「美味しい」ってなんだろうなあ。

生命維持だけを考えたらさ。人工的に完全栄養食を作って、一生それを食べてれば良いわけじゃない。昔カロリーメイトが発売された時に、これで人類は食に関する悩みから開放されたというような記事が出たことがあったそうだ。

もちろん、そんなことにはなっていない。

でもさ。食以外のジャンルでは、思想として同じようなことをやろうとしてたりするよね。完璧なものが一個あれば、それだけで良い、みたいな。かつて冷戦時代に西側諸国が東側諸国の思想を否定して、ひとつにまとめることを正義と思って争ったということも、似ていると言えなくもない。

料理って、本来の基本機能からドンドン離れていっているんだよ。そのままでは固くて食べられないものを茹でる。最初期は合理的な理由で料理が始まった。けど、豊かさを手に入れる度に「美味しい」を求めて変化していくでしょ。

それが、一部の特権階級だけだったわけだけど、近世に入った辺りからは庶民も含めた流れに変わっていったのだ。日本の江戸時代なんかわかりやすいくらいの転換期。

今日も読んでくれてありがとうございます。食べものは、どんな位置づけになっていくのか。どうあるとみんなにとって良いのか。そういうことを考えるようになっちゃったからさ。お店の経営が従来のスタイルからだんだん変わってきちゃったんだよね。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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