「飲み会は無駄」だと、断じる人がいる。そうなんだよなあ。youtubeを見ても、本を読んでも、ビジネスで成功している人たちの中にではバッサリと、無駄だと断じているものも少なくない。実際の所そうだと思っていた。
仕事や上司の愚痴を言って、事業の話をするかもしれない。人の噂話に、ボケてツッコんで。歌を歌う。ドリンカーズハイとでも言うのか、時には哲学めいた話をしたり、人生を語ったりもする。そのくせ、大して覚えてもいない。
下手をすると、翌日のパフォーマンスは著しく低下する。
まさに無駄。ろくでもない。時間の浪費である。
けれども、このご時世においてはとても愛おしい時間にも思えるのだ。
「今日もお前たちの貴重な時間を奪ってやる」
という語り出しのyoutubeがある。言い得て妙。そのとおりである。そのyoutubeが、雑学を主体としているところがまた面白い。
他の番組でも、実際の生活や仕事には役に立たない物が多い。たべものラジオだって、聞いたからと言って明日の仕事に直接役に立つ情報を配信しているわけじゃない。言ってみれば情報バラエティ番組だ。
バラエティ番組にもいろいろある。愚にもつかない話。面白おかしく情報を得る話。ただただ、笑い転げるだけの話。芸人がなにかに挑戦したからと言って、それをみて事業のアイデアに繋がることなんかは無い。そうなのだ。飲み会は、日常に転がっているバラエティ番組なのだ。
毎日、毎時間が常に教育系の番組ばかりでは息が詰まるのかもしれない。
そもそも、酔っ払うということ自体が、そういうことなのではないだろうか。
時間の浪費を楽しむ。
とりあえず、楽しかったという記憶だけが残る。それだけのことなのだ。それだけのことが、実はとても愛おしくて、大切なこと。だからこそ、人類は古代から酒を飲み続けてきたと考えられなくもない。
「コミュニケーションとしての酒。」
これは、文化人類学でもいろんな研究論文が存在する分野だ。
興味深いのは、コミュニケーションに重要な情報は含まれていないことだ。とにかく、誰かと会って、同じ時を過ごし、同じものを食べる。そして、ただただ無言の間を埋めるためだけに言葉を紡ぐ。これこそが、もしかしたらコミュニケーションの最も根幹的な部分なのかもしれない。
一部の地域では、全く内容のない会話をすることがコミュニケーションであるという。「あれがどうにかなったんだってねえ。そうだ、これもあれらしいよ。」ついうっかり、「あれ」、「これ」に具体的な内容を代入したくなる。けれども、その文化圏では文字通り、「あれ」、「これ」だけで話をする。しかも、なにも想像していない。全くの無駄な言葉の取り交わし。
バラエティ番組は、この事例よりは情報が盛り込まれている。基本的に一方通行なのだから、情報がゼロというわけにはいかないのかもしれない。
飲み会というのは、意味のあるものや効率を求めてするものではない。ただのコミュニケーション手段だ。そこに人がいる。その人と、得体のしれない何かを共有する。そして、なんとなく満足する。ただそれだけの空間。
これを無駄というのか、それとも人類にとって必要な時間とするのか。捉え方は人それぞれである。
今日も読んでくれてありがとうございます。人間臭くて、好きだな。飲み会みたいな時間。僕自身もそうだし、飲食店の一部はその時間を演出するために存在するようなもんだ。効率とか生産性とか、なんなのだろうね。