エッセイみたいなもの

今日のエッセイ。 スピーチに困っている人からの質問に応えてみた。 2022年2月25日

2022年2月25日

先日、機会を頂いて人前で喋るということをした。久しぶりだ。少数とは言え、人が集まるということが少なくなっているのだから。

そんな場で、別の機会にスピーカーをされるかたから、どうやってスピーチをしたら良いのかと尋ねられたのだ。実はそれこそが、今回、僕が喋ったことの本質だ。

そもそも、聞いている人だって大したことを望んでいるわけじゃないだろうし、伝えたいことがちゃんと伝わらなくちゃいけないという思い込みもいらないだろう。このエッセイでも何度か書いているのだけれど、人は誤解する生き物なのだ。

感想を聞いてみると、「そんなところをキーワードとして拾っちゃうんだ」と驚くことが多い。発信する側からすると、そこじゃないんだよなあ、と思うこともあるかもしれないけれど、それはこちらの勝手な話である。受け手が自由に解釈したら良いのだ。

自由な解釈は、その人自身の背景で考えていることがあって、たまたま僕の発した言葉に触れて思考が動いたに過ぎないということだ。そして、思いも寄らない新しい解釈が生まれたら、それはとても面白くもあり素敵なことだと思う。

これを前提にしていると、話す内容など何でも良いと感じてしまうのだけれど、言いすぎだろうか。

少しばかりの新しい情報があれば、大抵の場合は満足してもらえるだろう。情報というのは、今までに学んだり経験したりして、外側から得たモノ。それから、インプットしたことを起点にして自分で考えたモノ。この2つ。

これを面白おかしく話すことが出来ればよいのだ。けれど、面白おかしく喋るというのはそこそこハードルが高い。プロの話者じゃないのだから、そんな訓練をしているわけでもない。面白く感じてもらうための技術や、そのための訓練もあるのだけれど、いらない。頻繁に話す機会があるのであれば習得しておいたほうが良いのは間違いない。もし、興味があるならなにかの足しにはなるはずなので訓練してみるのも悪くない。ただ、必要に迫られて一回こっきりで恥をかかないためにというくらいだったら、必要ない。恥をかく覚悟さえしておけば良いのだ。

大体の人は、知り合いと井戸端会議が如くに喋るのには不便をしない。なんだかんだと笑っているじゃない。お互いに。しかも、大した内容じゃないことがほとんどで。ボケもツッコミもオチもなく。それで良いのだよ。

大勢の前で話す時は、レスポンスがないことが緊張を呼ぶことがある。合いの手がないというのは、慣れないとしんどいものだ。慣れていてもリズムをつかみにくい。ぼくなんかは、わりと妄想で勝手に進める。けれど、反応があったほうが乗るのも事実。だから、誰か1人をターゲットにして、その人に語りかけるつもりで話すというのもありだろう。

とはいえ、前述の方も不安なんだろう。ぼくは、1時間まるまる自己紹介で良いのではないかと伝えた。僕自身がよくやるパターンだ。実は一番楽ちんなテンプレートでもある。

時系列は決まっているし、なんだかんだと笑えるポイントだって人生のどこかには転がっているし、なにより自分自身の思い出話なのだから、困らない。なんて楽ちん。自身の人生を振り返って、どこを抽出して話すか。その時の状況や出会って面白かった人などのエピソードはないか。そして、自分が何を感じたのか。それを羅列する。

あなたの経験は、あなた自身の人生ではアタリマエでも、他の人にとってはアタリマエじゃない。だから、それだけで十分にコンテンツになりうるのだ。優良コンテンツに変えるのに必要なのは、編集力。話術なんかよりも、そっちに時間をかけたほうが良い。

今日も読んでくれてありがとうございます。聞いている人も、何かを掴もうという意識で来場するからさ。え?と思うようなことから、勝手に補完しちゃうんだよね。そういうことで良いんじゃないかしら。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

-エッセイみたいなもの
-, ,