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今日のエッセイ 日本語って変なの? 2021年2月14日

2021年2月14日

日本語というのはちょっと変わっていると言われています。実のところは僕にはわかりませんけどね。せいぜい僕が比較できるのは英語くらいのもので、世界中のたくさんの言葉の中で日本語がどのくらい変わっているのかはわかりません。

そんな中で、日本語について「なんとなく面白い」と思っていることがふたつあるんだよね。ひとつは「主語という概念が存在しない。」ってことで、もうひとつは「ひとりで完結しない」ってこと。

主語っていう概念自体が、英語などのヨーロッパ言語が日本で研究される過程で出来たものらしくて、それまではなかったみたいなんだよね。どっかの書籍で読んだのだけれど、日本語は基本的に「述語」と「修飾語」で出来ていて、「僕が」とか「あなたが」というのも「修飾語」のような役割になっているのだって。言語学の専門家らしき方の書籍だったので、なかなか掴みづらい概念だなあ。

あれこれそれ、という指示語を一人称にしたものが「僕」というようなことだったかな。難しいからあんまり理解しきれなかったのは覚えている。でも、もともと主語という概念がないということだとしたら、ちょっと見方が変わるような気もするんだ。日常会話の中では「主語なし文」が頻繁に使われるけれど、これは「主語が欠落しているのではなくて、これで完結している」ということになる。

英会話でも主語が省略されて話すことは多いけれど、それは飽くまでも「省略」されているのであって不完全じゃないという扱いなんだよね。それが、日本語の場合は「主語のない状態で完全」・・・。でいいのかな。

なんか面白いよね。

そのくせにというか、だからこそなのかもしれないけれど、ひとりで完結させないっていうのも面白くないですか。たとえばお腹が減ったときに、「お腹へった~」というときもあるけれど「ねえ、お腹すかない?」って言うこともある。これが英語だと、どちらの場合でも「I am hungry(僕はお腹が減っている)」ってなるんだよね。自分の状態を宣言するみたいな感じで、それに対して同調するかどうかは相手に任せる。常にとは言わないけれど、なんとなくこういう傾向があるように感じるのです。

同調を促すという部分もあるかもしれないけれど、どちらかというと「相手からボールを返してもらうことを前提に優しくパスを出して、そのパスをつなぎ続けて文章を作り上げる」という感覚。そうだ、一緒に文章を作っているというのが近いかな。共同作業だ。なんか面白いよね。

今日の話は、全く料理とはつながらないようなことでして。別にどうだということもなくて。ただ、そういうのって面白いよねというだけのことです。

僕らの料理も実は「お客様へのパス」になっていて、それが返ってきて一緒に「食事といういい時間」を作っている。なんてことはないのかな。そうだといいな。

  • この記事を書いた人

武藤太郎

掛茶料理むとう2代目 ・代表取締役・会席料理人 資格:日本料理、専門調理師・調理技能士・ ふぐ処理者・調理師 食文化キュレーター・武藤家長男

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