掛茶料理むとうには、毎年中学生や高校生が来ます。職業体験ということで、僕たちがどんな仕事をしているのかを体験するのですね。昨年は新型コロナウィルス感染症の影響で、ほとんどの学校が実施しなかったけれど、学校に招かれて講師として壇上に上がることになりました。
「将来が不安。未来が見えない。」
生徒のみなさんも、先生からもそんな声がありました。たぶん、世の中のたくさんの人が感じていることなんだろうね。人間の普遍的な心配なのだろうと思うので、本当は答えようもないのだけれど。質疑応答の時間に「将来が見えなくて不安なのですが、どのように取り組まれていますか?」と質問されてしまったので、しょうがないから僕が普段思っていることを言ったらちょっとポカンとされてしまった。そりゃそうなるよね。だからあんまりこの質問はしてほしくなかったのだ。
「将来は一生かかっても見えないし、それが不安ならずっと不安でいてください。」
今思うともう少しオブラートに包んで話しても良かったかなあ。とは思うのだけれど、実際のところ「将来が見えなくて不安がない時代」は、世界史的にみてごくわずかしかない。というか、僕はそんな時代は存在しなかったのではないかとすら思っている。明治維新、日清日露戦争、一次大戦に二次大戦、世界恐慌にバブル、平成不況と日本の近代史だけを見ても生活基盤を揺るがすイベントは枚挙にいとまがない。しかもIT技術による時代変革の加速もあるし、直近なら新型コロナウィルス感染症の影響だってある。カーボンイーブンへの課題にエネルギー課題。
つまりは、不安要素をあげだしたらきりがないのよ。だって、どの自体に生きた人たちだって将来の予測なんて当たってないから。たぶん人類には無理なのかなあ。この話を掘り下げるとどんどん重くなってく気がするのでやめよう。
とにかく、不安がっていてもしょうがないんじゃないかなということを言いたいのです。無視するか受け止めて向き合うか糧にしていくか、まあなんにしても生きていかなくちゃならないのだしね。僕の場合は無視するというのは性分に合わないものだから、現状の課題や今後起こりうるとわかっている課題は事実として認めて、対策を考えるようにしているかな。実際、今もそうだしね。
「新型コロナウィルスの影響でお店が潰れたらどうしよう」って不安がってても、どうしょうもないでしょ。いま、現実にどうなっていて、とりあえずの予測をしてみて対策を考える。予測が違っていそうだったら朝令暮改も辞さない覚悟でどんどん変えていく。
今日も読んでくれてありがとうございます。書いていたら、出来ていない部分もたくさんみえてきてちょっとへこんだので今日はこのへんで。また明日。