最初はふぐとすっぽんの専門店
1975年。今から遡ること約40年前。
会席料理で若干22歳にして親方まで任されるようになり、今のかちゃ料理むとうの原型となる「ふぐ・すっぽん むとう」を静岡市常盤町にオープンしました。
27坪のお店にはカウンターと4人テーブルのお座敷が数組。
冬のふぐ漁期を中心に営業をし夏の禁漁期間は営業していませんでした。
席に座れば一人最低1万。
そんな商売でしたが、
女将いわく
暴○組合の組長さんたちに気に入られてしまい
(みなさんいい人です)
店の前に黒塗りの車が横付けでいることで一般のお客さんが入ってこれないことがり当時大変だった・・・ということもあったそうな。(苦笑
※今はそんなことはないです。
ふぐ処理免許の初代指導役
大阪修行時代にふぐを覚えたあと、静岡に戻った父、一夫はふぐの免許の整備に一役買われることになります。
1970年代中ごろの静岡県はまだふぐの免許制度が整っておらず、ふぐ処理師免許の整備、指導、試験官となり、制度を整えることになりました。静岡県ふぐ協会の設立当時は大変だったようで、県内各地を兄弟子と一緒に何日も掛けてすべての料理店に行ったそうです。そのかいもあり、初のふぐ処理講習会には800人ほどの料理人が集まり、その後の静岡県のふぐ料理の発展に大きく貢献しました。
(昔から長いことふぐに関わってきているので現在も全国ふぐ連盟や、京都ふぐ協会、東京にお呼びがかかることもしばしば。)
その後、ビルの立て直しという名の強制退去になるまでの10年間は常盤町ですっぽん・とらふぐの店として繁盛しました。現在もその跡地付近にはふぐのお店があるそうです。
掛川移転後の苦難
1986年に店舗を静岡県静岡市常盤町から現在の静岡県掛川市に移転。現在の場所になった理由は、隣の隣の山に武藤家の本家があり、土地を紹介してもらったそうな。移転先は元々農村地域で、掛川市内を見渡しても飲食店は数えるほどしかなく、地図を見るとまだ新幹線も止まらなければ、東名高速道路のインターもまだない時代。掛川市街から南に抜ける大通りはお店の前の道一本という立地でした。山の中に一軒家状態。
そこでいきなり「ふぐ」と言っても誰にも相手をされず、ましてや会席料理なんて小洒落たものなぞ知らんと言われる始末。そこで考えた父は会席料理を定食料理に見立て、そこにこっそり「ふぐ」やら「会席料理」を紛れ込ませて浸透することにしたそう。当時の賑わいときたら、駐車場は満車、道路まで渋滞という混雑でした。従業員は3交代制で早朝から深夜まで営業をつづけ、それでも間に合わないから親族を呼んで手伝ってもらったという時代でした。「よくわからん魚よりマグロをよこせ!」と良く言われたって母が言ってました。
そこから何十年もたち、道は開け新幹線や東名インター、近所にホテルや市立病院、ファミレス、さわやか、掛川花鳥園、エコパスタジアムができやっと本来の「会席料理とふぐとすっぽん」の掛茶料理むとうに戻ったのが2010年過ぎてからのお話です。
ちなみに母でもある女将は静岡県ふぐ処理師免許合格 女性第1号でもあります。
また長男(太郎)・次男(拓郎)もふぐ処理師免許を取得しています。
その後、静岡県ふぐ協会の発起人に名を連ね、長きに渡り協会の理事でもあった父、武藤一夫に変わり、拓郎(次男)が理事に就任。一夫は現在は相談役として在籍しています。
駿河の名工を賜る
2017年12月にはふぐの刺し身の飾り切りなどを含む高度な飾り切り包丁技術を認めていただき、
静岡県職業優秀技能者功労表彰「駿河の名工」(日本料理人部門)
※全国版は現代の名工でその静岡県内版。
をいただきました。
若かりし頃の父、一夫は伝説の飾り切り職人といわれた方の鞄持ちをしていたそうで
独立後も鶴や亀、鳳凰などを野菜で作っており、お客様には大変喜ばれました。