戦国時代、日本各地に多くの武士団があった。一国をまとめ上げた大名もいれば、国衆と呼ばれ小領地を支配した武将もいる。かつて遠江国と呼ばれた静岡県西部地方は、徳川家康が平定するまでの間、多くの武将たちが割拠する土地だった。その中に武藤という武将が存在した。
本拠となっていたのは一宮荘。現在の周智郡森町で掛川荘の北西部に広がっていた。かつては遠江の小京都と呼ばれ栄えた地域である。武藤がこの地の地頭に任じられたのが室町時代のことだ。元々は、北九州の有力武将だった少弐家の領地であったらしい。おそらく、分家を現地管理者として派遣したのだろう。1432年には九州少弐家との縁を切って独立して、足利将軍家直属の部隊となっている。
戦国時代。武藤氏定が当主だった頃である。遠江国は今川の勢力範囲にあって、武藤もその勢力下に敷かれる武将の一人であった。この頃、武藤氏定は城や砦などを築いて国の防備を固めている。今川の勢力圏とは言え、時は戦乱の世。それぞれが独立した勢力であって、何が起きるか予測の付かない時代だ。たまたま、時の情勢に合わせて臣従しているに過ぎないのである。
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、遠江国は狩り場となった。東から武田、西から松平が奪い合うことになったのである。遠江の小領主たちにとって、自らの存亡をかけた時代であった。武田につくか、松平(後の徳川)につくか、それとも別の道を歩むか。こうした選択肢の中で、武藤は武田についた。
この時、山ひとつ挟んだ西隣の井伊は松平に臣従して、後に彦根藩を任される大藩になる。その判断をしたとされる城主井伊直虎は、のちの徳川四天王のひとり井伊直政の母であった。まさに、2つの大勢力に挟まれた遠江での選択が引き起こした運命の分かれ道である。
武藤は、松平の侵攻に対峙することとなった。整備した城も砦もこの時のためであったのかもしれない。ただ、既に三河一国を掌握した松平の勢いは強く、何度となく押し込まれ、自らの所領を捨てて甲斐へと逃れることもあったようだ。
三方原の合戦を経て、いよいよ遠江の攻防も最後となったころ。武田方に残された砦は、高天神城だった。そこは、遠江国を平定するために絶対に必要な拠点である。なんとしてでも守りたい武田、どうしても取りたい松平。武田の軍勢の中に、武藤氏定の姿があった。
天正9年、高天神城をめぐる戦闘が始まった。高天神城はその防御力の高さで名を轟かせた名城である。力技でどうにかなる城ではない。そこで、松平は城を取り囲むようにいくつもの砦を築き、全ての物資を封鎖したのだ。兵糧攻めである。
元々野戦を得意としていた家康のことだ。「難攻不落の城に籠もられるより、出てきてもらった方がありがたい。」そうした思いもあっただろう。かくして、最後の決戦を覚悟した武田勢は、家康率いる松平勢へと襲いかかった。そして、武藤氏定は再び故郷の地を踏むことはなかった。
武藤氏定の子孫が移り住んだのが、城東郡亀甲村。現在の掛川市駅南に広がる一体である。武藤一族は帰農し、400年以上の時を経ていくつかの家に分かれた。地主として続いた家系が私のもとへ繋がっている。